大潟村干拓博物館は、現在無料で入館できるようです。入館料無料のおしらせ(12月~2月)
大潟村のある場所は、かつては日本第2位(面積220k㎡)の湖沼「八郎潟」がありました。八郎潟は南部の狭長な水路で日本海と繋がっている汽水海跡湖でありましたが、八郎潟干拓により農業用水確保のため、海との間を防潮水門で仕切られたため、淡水化しました。
八郎潟の成り立ちは、1万年まえは陸続きであったものの、その後海面が上がり続け、4千年ごろから寒くなり、砂嘴(さし)が浮き上がり、2千年前には海水の流入が減り、河川の水が流入したため、塩度が薄まり汽水海跡湖となりました。
大潟村干拓博物館は道の駅おおがた(過去記事)の隣にあります。前回訪れた時に見れなかったので名残回収の旅です。
そもそもなぜ干拓事業が行われたのかというと、以前から食料不足に対応しようと干拓事業案は出され、お金と技術の問題で浮かんでは消えしていたのですが、アメリカが日本に戦後賠償をなるべく求めない方向で、できるだけ多くの戦勝国をサンフランシスコ平和条約に参加させようとしていたところ、オランダは難色を示しました。オランダは日本にオランダ領東インドを占領され植民地を失ったため、日本に対して良い感情を持っていませんでした。
そこで日本政府は何か解決策はないかと探したところ、農林省が八郎潟の干拓があると手を挙げ、当時の吉田首相は干拓事業に強い意欲を持っていたので、さっそく干拓王国オランダに農林省の職員を派遣しました。そうして、オランダから昭和29年4月(1954)にヤンセン教授とフォルカー技師が視察のため来日したのでした。
参考:八郎潟干拓「挑戦と変革の物語」のヤンセン(農林水産省 より)、サンフランシスコ平和条約と八郎潟干拓(大潟村 より)
こうして昭和29年(1957)ヤンセンレポートが提出され、世界銀行とFAO(国際連合食糧農業機構)調査団が調査した結果、干拓事業の有用性が認められたのでした。
もちろんそれまで八郎潟で漁業を営んでいた漁師たちは干拓に反対しました。3000世帯の生活がおびやかされると考えたからです。
当時の小畑知事は、漁師たちに説明会に来るよう促し、補償もすると約束し漁業補償問題を解決したのでした。
こうして昭和32年(1957)オランダの技術協力と世界銀行からの融資を受けて八郎潟の干拓が着手されました。
干拓は続いていましたが、昭和34年(1959)5月、西部干拓地試験農田で作付け開始。昭和39年(1964)10月1日に秋田県で第69番目の自治体として、全国から募集した村名を冠した「大潟村」が誕生しました。当初は6世帯わずか14人の人口だったそうですよ。
昭和32年(1957)5月に着手した八郎潟干拓は、20年後の昭和52年(1977)3月に完了したのでした。完了に先駆け昭和41年(1966)に第一次入植希望者の募集が始まりました。第一次募集には定員56名に対し、615名の応募があり、倍率は11倍。第5次募集までの平均倍率は7.2倍だったそうです。北は北海道、南は沖縄まで、全国から入植者が集まった面白い村になりました。
大潟村には誰でも入植できるわけではなく、20歳~40歳(営農経験と体力があれば45歳)までで、書類審査、筆記試験(国語、数学、社会)、面接試験の結果を総合判定し、地方農政局ごとに候補者が選定されました。
協調性なども必要とされており、難関をくぐり抜けた合格者たちの名前が1人ずつテレビニュースで発表されたそうです。(大潟村物語―新生の大地・湖底のふるさと 戸井田 克己 (著))
中央干拓地15,666ha、周辺干拓地1,573haの合計17,229ha(東京ドーム換算3,684個)の広大な土地が出現しました。
参考:
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