大櫛之岡
平津驛家西一二里 有岡 名曰 大櫛 上古有人 體極長大 身居丘壟之上 手摎海濱之蜃 大蛤也 其所食貝 積聚成岡 時人 取大朽之義 今謂大櫛之岡 其踐跡 長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許
『常陸國風土記』那賀略記
縄文時代前期に形成された貝塚遺跡である大串貝塚は、平安時代の常陸國風土記に上記の記載があり、石器時代遺跡の記録された日本最古の例とされています。
大櫛には巨人がいて、岡に寝そべって浜の蛤をほじって食べていたそうです。大量の貝殻を投棄してあった場所が、岡のようになっていたのを説明づけるための創作なのでしょうが、石器時代の遺跡の跡を記した最古の例が、奈良時代初期に編纂された記録にある事にロマンを感じます。
奥の建物は弥生時代の住居。
縄文時代の住居のようです。弥生時代と違いはあまりないようです。左には骨を削っている人、右には犬がいます。
弥生式住居よりは小ぶりなようです。中心に炉があるのは同じですね。
其踐跡 長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許
その[巨人の]足跡は、おおよそ、長さ40歩あまり、幅20歩あまりで、尿の穴(※立ち小便によって穿たれた穴)は直径20歩あまりであった。
お尻から入ったからかな…順路があるのかも
右側に土偶の部屋への入口があります。
神々しいです。
コンクリートかと思ってましたが、ノックすると割と軽い音が返ってきました。
左にあるガラス張りの建物が貝層断面を展示している場所です。
大串貝塚はこの景色に背を向けた方向にあります。
ひっそりとあり。折居神社と地図にあります。
貝層は右側にあるようです。
ダイダラボウの高さ15メートル2センチは、やはり大きいですね。
何種類かありました。
巨人たちの足跡”~市政施行から現在、水戸の考古学史総まくり~”の副題があります。水戸市は明治22年(1889年)市政施行により誕生しました。
ご当地かるたがあるようです。「”た”ダイダラボウ山や田んぼをひとまたぎ」「”つ”彝(つね)と大観は絵の大家」中村彝と横山大観のようです。ご当地かるたっていいですね。その地域の文化や歴史、偉人、名物などよくわかります。
台渡里関連以外の撮影はOKとのことでした。
明治時代に常陸国風土記の記述が貝塚を示してるのでは?と指摘した「大日本地名辞書」の編纂者吉田東伍によると「後考ヲマツ」と結ばれています。その後、貝塚の確認を若林勝邦が行ったようなのですが、若林自身が報告をすることは無かったようです。そして実際に明治26年に発表された八木奘三郎、下村三四吉の論文「常陸國椎塚介墟發掘報告」には、明治22年3月に若林勝邦の名が発見者として記されています。
「説卦伝」にある一文「聖人南面而聴天下 嚮明而治」(書き下し:聖人南面して天下を聴き、明に嚮いて治む。解釈:聖人が南を向いて〈着座し、そのような正しい姿勢を執って〉政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まる)を出典とし、「明」と「治」を採って元号とした。
19号墳は方墳で切り石積みの横穴式石室だったようです。
誰かが完成させてそのままだったので、ちびっ子の気を引こうと何枚か外しておきました。
干時初春令月氣淑風和梅披鏡前粉蘭薫珮後之香
初春の令月 にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す
じっくり見て回ると、水戸市への理解が深まる良い展示でした。
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