おちょこを伏せて置いたような面白いデザインの道の駅です。針葉樹をイメージして作られたそうです。道の駅の裏手に川上川が流れ、すぐ近くで久慈川に合流します。
まず目につくのが巨大な人形です。第23代塙代官の寺西重次郎封元(てらにしじゅうじろうたかもと)で、天明の飢饉の際に、江戸から木材などの事業を請け負い地元を助けたそうです。また、農業振興や子育て改革にも熱心で、塙の人々に親しまれている名代官です。(福島民友【 寛政の改革・農業政策(2) 】名代官登用で農村復興)
竹の骨組みでできており、道の駅はなわができたころから補修しつつずっと見守っているそうです。(道の駅はなわの登録日は2002年(平成14年)8月13日)また、勤労感謝の日には産業祭が行われ、お代官様が折り返し地点で見守る「塙代官カップ水上俵引き競争」が行われるとのことでした。(塙町観光観光協会のHP)
地面に泥があったので、見上げたら熱心に泥付きの素材を運んではくっつけしていました。
勿論定着せず落っこちるものもあり、下に落ちている泥を見るに、1/3の割合でくっついてるように思いました。時間があれば定点観測したかったです。
道の駅で写真を撮っていると、親切なおじさんが話しかけてきて、指さした先には風呂山公園のつつじの赤い斜面がありました。
「おぉ!」と感嘆すると、おじさんは嬉し気に笑いながら山の名前を教えてくれたのです。町の人自慢の場所ならば行かねばなりますまい。
風呂山公園へ行く途中に向ヶ岡公園があります。ここは寺西重次郎封元(てらにしじゅうじろうたかもと)が窮民救済事業で築造しました。桜、楓、松などを植え庶民の行楽地としたそうです。
風呂山公園は日露戦争終戦後の荒廃期に、当時の青年会が希望の木として山躑躅(やまつつじ)を植え管理してきたのが始まりで、現在4,000本のつつじが植わっているそうですよ。荒廃したときに希望を失わず立ち上がろうという、名代官寺西様の心は現代にもしっかり受け継がれているのですね。
上に見えるのはミツバツツジでしょうか。薄紅藤色のつつじもきれいですね。
お椀の味噌汁が爆発したかのようなエフェクトがかかっています。最初はライオンかな?とも思ったのですが、そうではありません。塙町はダリアの町なのです。ダリアの町なんて響きが素敵でしょう?8月にはダリア祭があるそうですよ。
あれ?電飾看板だと思ったので、電気系統の気配がなく益々不思議な気持ちになりました。
な…何もないな…ただの見ずらい看板???斜面で少し危険ですが正面に近づくことにします。
なんだかペットボトルの上のほうのようです。
これは中に一式収まっている電飾では?ダリちゃんイルミネーションを手掛かりに調べたところ2年前のこんなツイートが
なるほどなるほど~現在も夜には光っているのでしょうか。残念ながら確認することはできない旅人なのでした。
風呂山公園の頂上まで行けば三峯神社があったようなのですが、つつじが上のほうはまだ咲いておらず、道の駅方面へ降りてきました。
相当古い橋に見えます。いつごろのものでしょうか。銘板の場所は空洞になっていました。
8月には大小3,000個の灯籠流しと花火の競演、塙流灯花火大会があるそうですよ。
今回資料を調べていて気付いたのですが、昔、道の駅はなわの付近に田中愿蔵(げんぞう)刑場跡があったようで、現在は道の駅の駐車場にあるようなのです。見逃しました。なんと勿体ないことを…
田中愿蔵(げんぞう)は攘夷を叫び幕府に迫った水戸藩の天狗党の一員でしたが、より過激な人であったようで、方針の違いから袂を分かち軍資金調達のため荒っぽいことをします。そうこうするうちに追手がかかり、ついには自首に等しい状態で捕えられ塙代官所(←ここも橋の近くにあったようです。残念。)に送られ、久慈川の河川敷にて21歳の若さで斬首されました。
「みちのくの山路に骨は朽ちぬとも 猶も護らむ九重の里」
辞世の句をみれば、ぐっとこみあげてくるものがありますが、いくら正義と信じていたとしても、賊のような行いは支持されるはずもなく、自らを窮地に追い込んだだけでした。なかなかの美男だったらしいので、物語性の高い人物だなと思いました。(Wikipedia田中愿蔵 日光参拝と田中隊の活動)
はなわ農泊交流協議会 はなわ
昭和40年の塙町の観光パンフレット(塙町)
塙町のHP
塙町観光PR動画
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