碓氷第三橋梁は、めがね橋として親しまれています。国の近代化遺産にも指定されています。
回ったルート。赤が徒歩、青が車。今回はめがね橋から5,4,3号隧道をご紹介します。アプトの道はJR横川駅の隣にある鉄道文化村から始まって、熊野平まで整備された廃線を利用した遊歩道になっています。
めがね橋の駐車場にはトイレと自販機があります。
この日は故障のため使用できませんでしたが、今は使えるようになっているそうです。めがね橋のトイレが使えない時は、400m横川駅方面に下った碓氷湖の駐車場にもトイレがあります。
- 軽井沢駅行き11:23 | 横川駅行き13:22
- ■期間限定運行
- 運転日:平成31年7月6日~7日、10月26日~27日、11月9、10、16~17日になります。
- 運賃は、お降りの際にバス車内でお支払いください。
- Suica、PASMO等の交通系ICカードはご利用いただけません。1万円、5千円、2千円札の両替はできません。
一日1本だけのようです。
横川~軽井沢間は勾配がきついため、鉄道が敷かれる前は馬車鉄道が通っており、碓氷橋、中尾橋で馬の継替えをしていたそうです。下等車は店員10名の2頭引き、上等車は1頭引きで5人乗れるものもあったそうです。碓氷馬車鉄道(Wikipedia)横川~軽井沢間の所要時間は2時間半かかったそうです。
大勢の観光客が訪れていました。明治25年(1892年)に完成したもので、美しいアーチを描く設計はイギリスから日本に招聘されたイギリス人技師のパウナル (Charles Assheton Whately Pownall)と古川晴一によるものです。
現存する煉瓦造りの橋梁としては国内最大規模です。ユネスコに世界遺産登録をして2007年(平成19年)6月に暫定リスト入りをしましたが、心無い人たちの落書きなどで困っているようです。
文化財に落書きをしたり、名前を彫りたがる心理はどういうものなのでしょうか。この人たちが冬になったら、紙で指を切る呪いをかけておきました。
(山間部の文化財保護に難題 碓氷峠の鉄道遺産で被害相次ぐ 上毛新聞)
横川~軽井沢間は明治26年(1893年)4月に開業し、昭和38年(1963年)まで70年間走り続けました。
めがね橋の上まで登ってみましょう。注意書きに目を通して…そういえばこの日、山ヒルにやられました。帰りに気付いたのですが、すでにたんまり私の足の血を吸った山ヒルはどこかで下車したようです。出血の後だけ固まってました。強制的に剥がしたいときは、塩かライターの火で炙るなどすると剥がせるようです。噛まれたところは痛くはありませんが、風呂などで洗うと再び出血しました。一時的に血が固まりにくくなるそうです。
一休みした時に忘れちゃったんでしょうか…
奥の施設が気になったので寄り道します。
管理は碓氷上水道企業団となっていました。
道路への流れを緩和する役目でしょうか。
碓氷川は、めがね橋の下を通っています。階段を上りましょう。
鉄道関係かな?水道関係かな?なんて考えていましたが、tanuが無表情な狸のような目で「かまどだよ」と言いました。こんなところになぜかまど?と思いましたが、言われてみるとかまどにしか見えなくなりました。事実は違うと思いますが、気に入ったのでかまどとします。
アカスジキンカメムシでしょうか?大人になった姿よりも子供のころのほうが上品な光沢があります。
今回は横川駅方面の隧道を行くので、熊野平方面の隧道は通りません。
安中藩主、板倉勝明侯は、安政2年(西暦1855年)藩士の心身鍛錬の目的をもって、安中城内より碓氷峠の熊野権現まで7里余りの中山道を徒歩競走させ、その着順を記録させた。これを『安政遠足』という。その記録が昭和30年、碓氷峠の茶屋(あづまや)から発見され、「日本最古のマラソン」として藩主の偉業を後世に伝えるため安政遠足保存会を組織し復元したものである。当時のタイムが残っていないので、現在と比較することはできないが、記録を競う遠足はこれが初めてであった。 (第45回安政遠足マラソン由来より)
約30km、スタート地点の標高200m、関所坂本宿ゴールは標高400m、峠コースのゴールは標高1200m、高低差1000mのハードなマラソン大会のようです。「安政遠足 侍マラソン」とは
本来は鉄道橋でしたので、遊歩道用に整備されています。
翅が小さくて飛べないけど、ここから跳躍したら飛んだ気分になれるかもしれない…って考えてるのでしょうか。観察している間はずっとその場所にいて飛びませんでした。
昭和38年(1963年)に建設されましたが、新幹線の開通で横山~軽井沢間の路線は廃止されました。
カナシデという木のようです。
5号隧道はひんやりしています。4,3隧道はここまでひんやりはしていませんでした。
トンネルは不思議な世界に繋がっていそうなファンタジー感があります。
せっかくの美しい煉瓦ですが、崩落したり弱っていたりする場所は補強がなされています。
明治時代の建造物には特にロマンを感じます。
かつて小屋でも建っていたのでしょうか。
公式のパンフレットには「トンネル」と表示されているのですが、建築物の佇まいがどうしても隧道(ずいどう)と呼ばせてしまうのです。
こういう色彩の絵画ありますね。
アプトの道の隧道は全部で10あります。(全体では26)工事は何社かにより区間を区切って行われたので、それぞれの区間で工法に工夫が見られるようです。
あの隧道の上どんな様子なのか気になります。
3号隧道は短かかったです。
右手に碓氷湖が見えてきました。
この日は同じ車に乗る人たちが集まっていました。碓氷湖パーキングには公衆トイレと自販機があります。
我々ダム部はこのあと右へ移動し、坂本ダムを鑑賞しました。
碓氷峠は1200万年前は海の中だったそうですよ。700万~200万年前には碓氷川上流地域で噴火活動があったりもして、地層は下部が第三紀中期の海生堆積岩類、上部が後期中新世から前期更新世の火山岩類で構成されているそうです。(Wikipediaより)
コメント