金生山化石館に車を停めて、金生山に登ります。標高217mの金生山は、伊吹山地の池田山から続く山域の南東端に位置する山。正式名称は「かなぶやま」と言い、通称「きんしょうざん」と呼ばれています。この辺は2億5,000万年前の、古生代ペルム紀の化石が多く採取されていることで有名です。
こうして見ると、登山という感じはしませんが、日頃運動不足なのでこの坂を見ただけで絶望感を覚えました。もう少し上まで登って、お寺の駐車場に停めても良かったと早くも後悔し始めます。根性無しですね。
風景を見ながらぼちぼち歩きます。この辺は良い石灰石がとれるため、周囲には関連企業が多数集まっています。
道路の左右に石灰石の採掘場や加工施設があります。このあたりでtanuがパンツのポケットに入れていたマスクを落としたことに気づき、後方にマスクを確認できたため、引き返して取りに行くアクシデントがありました。私は引き返さず佇んで見守っておきました。
結構気軽に歩いている人を見かけました。私よりご年配の方も健脚でてくてく歩いており、金生山のおかげで元気なのだろう、と自らの地元の坂すら歩きもしないのに、まるで金生山があれば健康になるかのような考えを、酸素の足りない頭に巡らせていたことを覚えています。
さっきの峠の茶屋も仐(傘)松という名前でした。移設したのでしょうか。詳しいことはわかりませんでした。傘松とは、この辺の事を指すようです。大垣市金生山化石館 化石館だより Mar 2018 No. 83(PDF)に登場していました。引用します。
金生山化石館設立の基となった故熊野敏夫先生は、1924年(大正 13 年)に「美濃国金生山案内」という小冊子の中で傘松からの眺望をとりあげ「傘松こそ吉野で言うと一目千本という所であって “美濃の春 手に取るようぞ 金生山”とは実に此の所である」と称えておられます。
調べても何も分かりませんでした。それとも先ほどの峠の茶屋傘松の事でしょうか?軽く写真を撮っただけなので、そんなすごい人なら調べればすぐわかるだろうと高をくくって通り過ぎてしまいました。裏に回ってみて見ればよかったです。何かわかったかも。
昭和55年11月11日に金生山の陸貝と生息地が岐阜県の天然記念部の指定を受けました。岐阜県のホームページより引用します。
この金生山には特産のアメイロヒルゲンドルフマイマイが生息し、これは他所では発見されていない。またこの地には38種類の陸生貝が確認されているが、狭小な地域でこのような多種類の陸生貝が生息することは極めて珍しい。
また、金生山のヒメボタルは大垣市の天然記念物となっていて、6月上旬~中旬が見頃とのこと。金生山の姫蛍の写真を見ると幽玄な雰囲気がありました。
飛鳥時代、「朱鳥元年(686年)創建し、本尊虚空蔵菩薩を安置す。」とあります。ウィキから引用します。
「明けの明星」は虚空蔵菩薩の化身・象徴とされ、明星天子、大明星天王とも呼ばれる。また、知恵の菩薩として、人々に知恵を授けるともいわれている。
この旅の目的は、岐阜のピラミッドと呼ばれる山を見に、金生山採掘場展望台へ行くことだったので、明星輪寺にはあまり立ち寄りませんでした。
明星輪寺には文化財が多く、中でも木造地蔵菩薩半跏像は平安時代のものとのことで、大正14年に国の重要文化財として指定されています。
ところで、参拝しようと思ったのですが、謎の男が手を合わせて読経中だったため、邪魔をするような気がして参拝をするのは止めたのでした。お遍路さんか何かだったのでしょうか。
近くの案内板から引用します。
寅像の由来
不破郡赤坂町新丁【彫刻師】清水金峯翁(本名常五郎)(略)古希(七十歳)を期に、一角の岩に寅像を彫ることを発願し、標高2百m、道のり八km程を徒歩、荷車等で日参し、手彫りで労苦の末、昭和二十九年十月七十七歳で虎像を浮かび上がらせ虚空蔵菩薩様に奉納した。(後略)
坂だけでも息が上がっていたので、思いもよらぬ全身を使った運動に後悔しつつも、「この先にはきっと絶景が!」という強い思いで頑張ってました。
とはいえ、今来た道を引き返すのは辛すぎる。それにまだ岐阜のピラミッドを見ていない。という事で、お寺方面と反対側に向かうことにしました。
tanuの案内を疑いながら文句を言いつつ、ついていくと、ありました!岐阜のピラミッド。
ええ、そうです。採掘された山なんですけどね、なかなかこんな様子は見れないじゃないですか。そしていつまでもあるとは言えないじゃないですか。そこは形あるものの儚さを愛でる心が動かざるを得ないのです。
結構ラフな展望台で、少々怖かったですが、よく見えました。
瓶はわかるのですが、茶碗は何故だ。
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