2023年11月15日、知覧平和公園へやってきました。
遺構の散策や公園内の知覧特攻平和会館見学などもしたので、朝早くから夕方ごろまで滞在していました。
このコース30分ってありますが、散歩する速度だと多分そのぐらいなのかな…私たちの場合、写真撮ったり看板読んだりしているので、朝から夕方まで居ても見れないものが出てきたりします。
映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の為に作られたものとのことで、陸軍の主力戦闘機として活躍した一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲がモデルだそうです。中島飛行機が開発し、空力担当にはあの、糸川英夫技師が加わりました。
糸川英夫氏と言えば、国産ロケットの父と言われ、小惑星「イトカワ」のサンプル採取を試み、2010年6月13日初めてサンプルリターンに成功した「小惑星探査機はやぶさ」を思い出します。
糸川英夫氏は戦後アメリカ滞在でロケット開発が進んでいるのを目の当たりにし、我が国も劣後してはならじとロケット開発の重要性を政府始め企業にも訴えたのでした。
その結果、1955年4月日本で初めてのペンシルロケットの水平発射実験が国分寺市で行われたのでした。
昭和20年(1945)3月 特攻基地となる。陸軍沖縄戦の特攻隊員1036名のうち,439名が知覧から出撃。
知覧特攻平和会館これまでの歩み より
ポツダム宣言を受諾したのが8月なので、特攻作戦には複雑な気持ちがあります。日本において終戦記念日は8月15日ですが、多くの国ではポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した9月2日に戦争は終結したと考えていますね。
鳥濱(とりはま)とめさんは知覧町で「富屋食堂」を営み、多くの特攻隊員の面倒を見た方で、戦後進駐軍によって知覧飛行場は跡形もなくつぶされましたが、とめさんは跡地に独自の木切れで作った慰霊碑を立てて線香や花を欠かさず供えていたそうです。
一方、特別攻撃隊を指揮し、戦後遺族めぐりを続けていた菅原道大は特攻隊員の慰霊施設の必要性を痛感していたため、「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」を4体建立しそのうちの1体を陸軍航空隊の特攻基地があった知覧に祀りたいと申し出たそうですが、戦後間もなくのことでもあり、平和運動団体から「戦争賛美」と批判されるなど苦労があったようです。
しかし、とめさんたちは「戦争犠牲者慰霊のための観音堂がなぜ悪いか」と反論し昭和30年(1955)9月28日に「特攻平和観音堂」が建立されたそうです。
第四〇教育飛行隊(西部第一二三部隊)由来
案内板書き起こし
昭和一九年知覧に第四〇教育飛行隊があり、七月から年末まで学と出身の特別操縦見習士官第二期生一三六名の操縦教育が実施された。
その後部隊も見習士官も移動した。
それから半年の後、再び知覧に降り立った同隊の第二期生及び教官を含む四七名がいるが、全員振部隊となり、思い出の飛行場から一路沖縄に出撃した。
なお第四〇教育飛行隊は菊池、各務原と移り陸航士五〇名及び第三期生六一名の教育をつづけて終結した。
出撃までの数時間を特攻隊員たちはここで過ごした。
綺麗に刈りこまれた街路樹が美しいですね。
当時からここにあった倉庫で、練習機の潤滑油やグリースを保管していたそうです。
町の麓を流れる思川から取水しポンプアップして貯水していました。戦時中は真っすぐ立っていましたが、地盤が悪かったため現在は少し傾いています。
お土産屋さんで知覧茶の試飲があり、とても美味しかったので二つ買いました。
内部で撮影が許可された場所は零式戦闘機展示室だったので、パンフレットから配置図を載せておきます。これは知覧特攻平和会館のホームページのフロアガイドにも掲載されています。
薩摩川内市の甑島沖約500m、水深約35mに沈んでいたものを引き上げ修復したとのこと
欧米諸国を驚愕させるまでに急成長を遂げた航空機産業の歩みを物語る近代化産業遺産群の中に南九州市の航空機関連遺産(知覧特攻平和会館収蔵四式戦闘機「疾風」・零式艦上戦闘機「零戦」)が認定されています。
売店で記録本を購入しました。昔の写真や遺書等を掲載していて、個人的に考えさせられたものを抜粋します。福岡県 今村若美少尉(18)の
「絶対に泣いてはいけません
私は名誉ある特攻隊員です
ほめて下さい
笑ってください」
これを母として受け取ったとき何を思うだろうか。
若い犠牲は特に痛ましい。無駄にするわけにはいかないという気持ちで戦後の復興を遂げることができた側面はあると思いつつも、終戦間際に戦死前提の特別攻撃隊編成は必要だったのだろうか、命令を下した上官が敗戦に接し、その後の行動を見るにつけ苦い気持ちになります。
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