旧開智学校は、明治時代の擬洋風学校建築としては初めて重要文化財の指定を受けました。(昭和36年)
向かい側に駐車場があります。
明治6年(1873)当初は廃仏毀釈で廃寺となった全久院(ぜんきゅういん)の建物を仮校舎としていたそうですが、その後新校舎を建設する際およそ7割を松本町全住民の寄付により調達したそうです。
全久院は、松本城主戸田氏の菩提寺でもありました。明治3年から4年にかけて吹き荒れた松本藩の廃仏毀釈は藩主自ら範を示すべく、戸田家の菩提寺である全久院を廃寺としました。全久院の意龍和尚は古来からの由緒を説いて愁訴するもその甲斐なく、破却の督促が迫って来たのでやむなく、三河国全久院に合併、什宝書類すべて引き継ぎ、三河国全久院住持金牛大和尚へ法脈を引き渡し、重宝本尊と開基像を負いて越後出雲崎に難を逃れたそうです。
出雲崎に壽院全久院を興し寺は現在も存続しています。全久院跡(pdf) より、一部抜粋要約しました。
木造2階建寄棟造桟瓦葺、外壁はコーナーストーン及び石積みの腰壁を模した漆喰塗大壁、中央に腰銅板張で廻縁付の八角塔屋を持つ。建物正面に中央玄関ポーチを突出させ、2階を唐破風屋根としている。当初は背面に長い入母屋屋根の教室棟が付属する逆L字型の平面構成をとっており、教場数32の大規模な建物だった。
現在はL字型ではなくI型になっています。
売店やトイレなどはここです。
窓の敷居に小さな花器があり、生けてあったのはすべて生花で、感動しつつ奥に進みます。(この花器は売店で売っており、一つ買い求めました。)
熱心な学芸員さんの説明する声が聞こえてきます。
tanuに「頭の悪い子の机って穴が開いてたよね~」というと、tanuの机には穴が開いてたそうです…
この周り階段に使われている丸太柱は、全久院で使われていたケヤキの古材の転用で、140年もの間、この校舎を支え続けているそうです。
明治天皇御座所と講堂の床には美篶細工(みすずざいく)と呼ばれる敷物が使われています。江戸時代からの松本の特産物で、スズタケを使ってつくるそうです。
ここで使われている美篶細工は、移築工事の際に、ここで職人さんが編んだ一枚物の敷物とのことです。
写真がぼやけて見えますが、桟唐戸(さんからど)です。建物の中には8面あるそうですが、その中でも一番古いものとの事です。
明治時代の子供の絵、大正時代の子供の絵、昭和時代の子供の絵などの展示がありました。
中央の大きな鐘を鳴らして、授業の合図をしていたそうです。塔に利用されている色ガラスは、当時は高価な輸入物で、2500枚の色ガラスを使用した校舎は「ギヤマン学校」と愛称で呼ばれていたそうです。
当時は奥にある準備室と教室を繋ぐ役目をしていたようです。
白い漆喰壁に炭を混ぜた灰色漆喰を塗り重ねて、外壁角を補強するコーナーストーンに見立てています。
観光地で見かける顔をはめ込むアレですね。制作年度を見ると、もしかすると毎年作って提供しているのかもしれません。
旧開智学校の横には、松本城周辺の道路拡張事業の折に寄贈された松本カトリック教会の旧司祭館が移設され、無料で公開されています。
松本市丸の内9番32号にあったものを、旧開智学校のある開智公園へ平成3年に復元されました。
トムとジェリーのジェリーが住んでそう。
コメント