甘木線太刀洗駅から200mほどの距離にあります。
企画展は「天空に生きた若者たち」として、遺品の展示や遺言などがありました。撮影して良い範囲が限られていたため、写真は極端に少なくなりますがご了承ください。
入り口の左側には三菱重工業のMH2000ヘリコプター(Wikipedia)の展示がありました。日本で初めて日本の技術だけで作った国産ヘリコプターで、展示のヘリコプターは2004年9月まで首都圏での遊覧飛行を実施。2005年3月に筑前町が取得したものとのこと。
表は「大刀洗町史」から大刀洗飛行場部分を抜粋したもので、郵便や一般旅客航空の記載を除いたものになります。
飛行機の写真は撮って良いけど他はダメ、とのことでしたので、いきなり飛行機の写真です。
震電は福岡の九州飛行機株式会社で作られたB29を迎え撃つための局地戦闘機。1945年6月、1号機が完成、同8月3日、試験飛行にて初飛行。その後6日、8日と試験飛行を行ったが故障が発生。三菱重工業から部品を取り寄せている最中に終戦となった。
機体は国内に残っておらず、現存機はアメリカの国立航空宇宙博物館別館で展示されているそうです。
前翼型(エンテ型)と言うようです。昆虫のホウジャクを思い出すずんぐりとしたフォルムです。
零式艦上戦闘機三二型(零戦)は世界で唯一の現存機。
当時の日本の軍用機の名称には採用年次の「皇紀」の下2桁を冠する規定があり、零戦の採用は皇紀2600年であったため、「00」零戦と名付けられたそうです。令和5年(西暦2023年)は皇紀2683年になります。
この機体はマーシャル諸島タロア島の施設が壊滅、滑走路脇のジャングルで昭和53年(1978)にアメリカ人のスティーブ・アイケン氏によって発見されたそうです。
昭和20年(1945)4月、特攻出撃命令を受け、満州から熊本県の菊地飛行場へ向かっていたがエンジン不調のため、博多湾内へ不時着したもの(Wikipedia)とされており、操縦していたのは鳥取県出身の特攻隊員渡辺利廣少尉と判明しています。
渡辺利廣少尉は不時着時漁船に助けられ、知覧飛行場へ向かった後、別の九七式戦闘機へ搭乗、沖縄方面へ特攻出撃し24歳で戦死したそうです。
過去の日本人が生き残ろうと必死に抵抗して今の日本がある。易々と手に入ると相手が思うなら攻撃を迷わない。迷わせ続ける方法をとりつづけ長らえなければならない。過去の日本人と未来の日本人のために、8月はそんなことを考える事の多い月です。
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