【愛知】新実南吉記念館

新実南吉記念館
愛知県半田市岩滑にある新実南吉記念館
愛知県半田市岩滑にある新実南吉記念館
新実南吉記念館(右)
新実南吉記念館(右)

雨が降っていて、急いで館内に駆け込んだため、遠景での記念館の写真を撮り忘れていました。近くにスーパーがあり、童話の森という公園の中に、新実南吉記念館は建っています。

六地蔵もあります
六地蔵もあります

売店のみの利用の場合は入場無料のようです。入ってすぐの受付で、一人220円(中学生以下無料)を払い展示室へ。

観覧券
観覧券
館内
館内

訪れたのは2021年9月26日。7月17日~10月24日の期間は、「コロナ禍に南吉を読む 感染症と新実南吉」と題した特別展が開催されており、特別展の写真撮影はNGとのことでしたので、常設展のご紹介になります。新実南吉が子供の頃にはスペイン風邪が流行り、新実南吉自身は結核により29歳7カ月で亡くなっています。

ごんの足跡かな
ごんの足跡かな
「僕のてぶくろ」桑山賀行
どなたかが読書を…
どなたかが読書を…

ギョッとしましたが、すぐに生き物ではないと気付きホッとしました。だってこんなところで読書するなんて、相当な胆力の持ち主か、怪しいファミリーの監視員みたいじゃないですか。

新実南吉さんでした。失礼いたしました。
新実南吉と言えば「ごんぎつね」ですね

最初に「ごんぎつね」のコーナーがありました。ごんぎつねは昭和31(1956年)年度使用小学校国語教科書(大日本図書)に登場し、順次採用が増えていき、昭和50年(1980年)から小学校4年生の国語の教科書すべてに載るようになり、今でも続いているそうです。

ごんぎつねの世界
ごんぎつねの世界
新実南吉の本の紹介
新実南吉の本の紹介
ごんぎつねに出てきた「はりきり」という魚を捕る網
ごんぎつねに出てきた「はりきり」という魚を捕る網
ごんぎつねのジオラマ作品
ごんぎつねのジオラマ作品
ジオラマをまとめました
ジオラマをまとめました
南吉の小説に出てくる物たち
南吉の小説に出てくる物たち
新実南吉少年
新実南吉少年
当時の遊びの紹介
当時の遊びの紹介

竹馬は、やったことあります。足を乗せる位置が高くなるほど、バランスとるのが難しかったです。南吉少年は8歳の時、新実家の養子となりましたが、寂しさに耐え切れず、12月には渡辺家に戻ったのでした。

南吉少年は尋常小学校を卒業したようです
南吉少年は優秀な成績で尋常小学校を卒業したようです。ほぼ「甲」の成績表。

光源の位置との兼ね合いで、どうしても私の影が映っていますが、お許しを。

渡辺家・新実家の家族関係
渡辺家・新実家の家族関係
火縄銃や鉛玉などの展示
火縄銃や鉛玉などの展示
中学生の南吉少年
中学生の南吉少年
半田中学校の学友会誌。活字になった南吉の作品
半田中学校の学友会誌。活字になった南吉の作品
卒業記念写真がオシャレ
卒業記念写真がオシャレ
中学も学業優秀だったようです
中学も学業優秀だったようです

左は南吉が生涯仲の良かった弟の渡辺益吉を描いたもので、中央は16歳の南吉が、学業で主席争いのライバルであり、文学仲間の友、久米常民にあてた手紙の4枚目とのこと。童謡とイラスト。

南吉初恋の女性
南吉初恋の女性

中学卒業後は母校で代用教員を務めながら、創作活動に勤しんだ南吉。この時期に「権狐」を執筆、赤い鳥に「ごん狐」として掲載されました。この時南吉18歳。

赤い鳥
赤い鳥
新実南吉の活発な執筆活動
新実南吉の活発な執筆活動

南吉の教員生活は昭和6年4月から8月までの5カ月間でした。

北原白秋門下の童謡詩人たちの雑誌「チチノキ」に南吉は加わります
昭和6年9月、北原白秋門下の童謡詩人たちの雑誌「チチノキ」に南吉は加わります
ランプの木
ランプの木
南吉上京す
南吉上京す

チチノキの同人になった南吉は、昭和6年12月に上京し、南吉が兄と慕う巽聖歌と知り合います。巽聖歌は童謡「たきび」の作詞で有名です。東京を案内されたり、北原白秋の家を訪ね、白秋との対面を果たしたりしました。卒業生の半数が教職に就いているという東京外国語学校の受験を勧められたりもしました。

東京から帰った後、巽聖歌へあてた手紙。親が東京へ行くことを許してくれたと報告している。

東京外国語学校を受験した南吉は、志願者113人中合格者11人という狭き門を突破し、合格しました。南吉は昭和7年から東京外国語学校の英文科で学びました。南吉を育て、世に広めた恩人が巽聖歌でした。

昭和8年12月「手袋を買いに」執筆。この時南吉20歳。
東京での生活
東京での生活

東京時代の下宿
①巽聖歌 宅 昭和7年4月~②外語寮 昭和7年9月~③川村 宅 昭和8年5月~④松葉館 昭和8年春?~

南吉の部屋
南吉の部屋(川村家の3畳間)

昭和9年2月、1回目の喀血。病弱だった南吉は一時帰郷し、1か月ほど療養したのち4月に学校に戻る。その後も南吉は学校に通いながらも次々と作品を発表していきました。

昭和11年東京外国語学校卒業
昭和11年東京外国語学校卒業
学校卒業後、東京で英語を生かした仕事に就くも、二度目の喀血により岩滑へ帰郷しました。
学校卒業後、東京で外国人向け商品を取り扱う東京土産品協会に就職するも、二度目の喀血により岩滑へ帰郷しました。
昭和12年4月から小学校の代用教員となります
昭和12年4月か~7月まで河和第一尋常高等小学校の代用教員となります。南吉23歳。

このコーナーでは、河和第一尋常高等小学校の代用教員となった初日の様子を記したものや、同僚に宛てた恋文などが紹介されていました。9月になると飼料会社に住み込みで勤めました。

杉治商会に就職。鴉根山畜禽研究所に住み込みで勤める。
杉治商会に就職。鴉根山畜禽研究所に住み込みで勤める。
昭和13年安城高等女学校の教諭となります。南吉25歳。
昭和13年安城高等女学校の教諭となります。南吉25歳。
恩師のはからいで正教員として迎えられることになりました
恩師のはからいで正教員として迎えられることになりました

1年生54名の担任となり、卒業までの4年間受け持ちました。また、1年から4年までの英語と作文の授業に当たりました。月給は70円。経済的にもずいぶん楽になったようです。生徒の詩を集め、詩集も出しました。安城高等女学校には、昭和13年4月から昭和18年2月まで教師として勤めました。

教員免許状等
教員免許状等
英語の答案や、同僚と旅行した際に同僚が書いた似顔絵(右が南吉)

南吉は教師をやりながらも、次々と作品を作り続けました。

最後の胡弓弾き
南吉にとって充実した時期だったようです
南吉にとって充実した時期だったようです

このころ世界では第二次世界大戦がはじまり、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結びました。

哈爾浜日日新聞など、発表の場が広がりました。
哈爾浜日日新聞、婦女界や新児童文化など、発表の場が広がりました。
1941-1943
昭和16年ー昭和18年
狐

昭和16年12月には太平洋戦争がはじまりました。あらゆるものが不足し、お寺の鐘など金属の供出等も行われました。上野動物園では動物たちが殺されました。

精力的に作品を発表し続けた南吉でしたが、昭和18年病状が悪化します。

先が長くないと悟った南吉から巽聖歌へあてた手紙
先が長くないと悟った南吉から巽聖歌へあてた手紙
弟の益吉にあてた遺言状
弟の益吉にあてた遺言状

昭和18年3月22日、喉頭結核のため永眠。南吉29歳。

弟の渡辺益吉は出征し、昭和20年8月1日フィリピンで戦死しています。享年26歳。


作者:新美南吉
1935年12月(昭和10年)
 ――弟益吉は知多半島の西海岸なる寒村小鈴ヶ谷に丁稚奉公をなす
弟の攝りておこせし
十六枚の寫眞われらは見たり
親子三人 灯(アカリ)の下に
蟲のごとつどひて見たり
この家がなんぢのつとむる店か
この海が店の前なる海か
この突堤にも舟はつくか
このとべるはかもめか
弟よ 汝がわざは
いまだ拙ければ
もののあやめさだかならねど
これら木の葉のごとき
十六枚の寫眞をつづりて
われらは見たり
汝が生活のいかにさびしきかを
かかる店にて貧しき海村の人々に
味噌たまりひさぐなんぢが日々の
いかに寂しきかを
弟よ 風邪ひくな
夜はとくいねよ
なんぢが兄は遠く家鄕にありて
なんぢが村にいづくより早く
春來れかしと祈る

戦後
戦後

戦後、巽聖歌は南吉の童話集を出版しました。南吉に未発表の原稿を託されていたそうです。昭和40年には新実南吉全集を出版。巽聖歌の努力により、新実南吉の作品は広く知られ読まれるようになったのです。

新実南吉の胸像
新実南吉の胸像は入口にあった「僕のてぶくろ」の彫刻家 桒山 賀行によるものです。

新実南吉記念館には売店があり、新実南吉の作品にちなんだ商品が多く売られていました。

ふところ餅

ふところ餅は知多半島の特産品で、農家の人がふところに餅を入れ、人肌で温めておやつに食べたそうです。狐の絵が描いてあると、ごんからのお届け物のように思えて、思わず手が伸びました。黄ごん芋は、くどくない甘さのおいしい和菓子でした。

記念館のすぐそばにある矢勝川へ散歩しましょう
記念館のすぐそばにある矢勝川へ散歩しましょう

矢勝川は南吉がよく散策していた川だそうです。「ごんぎつね」で兵十がはりきり網で魚を捕っていたのも矢勝川だと言われています。ここは、彼岸花がたいそう素晴らしく、300万本の矢勝川の彼岸花として有名です。訪れた時期はだいぶ色あせていましたが、これが見ごろであったらさぞやと思わせるものでした。

日当たりによってはまだ鮮やかな彼岸花もありました
日当たりによってはまだ鮮やかな彼岸花もありました
新実南吉の作品の世界
新実南吉の作品の世界

平成2年ごろ、南吉と同じ岩滑で生まれ育った小栗大造さんが「南吉がよく散策した矢勝川の提を彼岸花で真っ赤な風景を描こう」と思い立ち、一人で球根を植えていたそうなのですが、そのうち手伝う人たちが増え「矢勝川の環境を守る会」へと発展し、現在のようになったそうです。

川岸の鳥
川岸の鳥

彼岸花のほかに、コスモス、菜の花、ポピー、マツバボタンなど、季節によって盛りの花々で賑わうようです。半田市では「ごんの秋まつり」を毎年行っているようですが、コロナの影響で2020年、2021年と中止になっています。2022年開催されるとしたら、彼岸花が見ごろの9月の終わりから10月の初めにかけてです。

良い散歩道です
良い散歩道です
東邦ガスのキュビズムみたいなマンホール
東邦ガスのキュビズムみたいなマンホール

新実南吉記念館が館内の様子を見れるようにGoogleMapsで公開しています。

参考:
新美南吉顕彰会
愛知県立安城高等学校同窓会 新実南吉
新美南吉年表(安城市中央図書館)
第 10 回 中野区ゆかりの著作者紹介 巽聖歌と新美南吉 ―友情と名作を育んだ上高田-(PDF)
「ごんぎつね」現象と国語教科書-文学教育とはどういう文化か-府川源一郎 (PDF)
児童文学者コーナー 新美南吉