佐多岬③は佐多岬灯台守の官舎跡地のご紹介です。
徳川幕府は慶応2年(1866年)江戸条約で8つの灯台を建てる事を英・仏・米・蘭の4か国と約束しました。佐多岬灯台はその一つです。
昭和20年に空襲で破壊され、現在の灯台は昭和25年に再建されたものです。現在は無人で運用されています。
鳥の声や風の音が聞こえます
佐多岬灯台には船で行くのですが、昭和38年までは灯台守が常駐しており、ここには灯台守の家族が住んでいたそうです。
ここから隣の集落まで歩いて40分かかったとのことです。
雨水でも貯めて使っていたのかな。
当時を偲べそうなものはこの部屋位で、後は草木に覆われ、石の壁がうっすら見える程度でした。
佐多岬灯台建設用の貨物索道。日本最初の機械を動力としたロープウェイと言われています。島と島をつなぎ資材を運搬しました。
ここからは佐多岬で見た昆虫や植物の写真になります。
アサギマダラっぽいです。
鹿児島県肝属郡南大隅町は国指定特別天然記念物のソテツ自生地とされています。(鹿児島県教育委員会「鹿児島県のソテツ自生地」)
どことなく赤べこっぽい
枇榔の足元にはソテツ
この後、佐多岬公園駐車場に着いたらパラパラと雨が降り出したのです。「せめて岬を見ている間は雨を降らさないで~」と祈願して始めた散策でした。御崎神社は霊験あらたかです。空模様に不安がある時は是非お参りを。
↓の動画は海上保安庁のYouTubeチャンネルのものです。佐多岬灯台の空撮です。
参考:
- 鹿児島県「本土最南端・佐多岬 Cape Sata in Japan」・紹介箇所一覧
- 佐多岬 歌集(国立国会図書館デジタルコンテンツ)
- 燈台要覧「佐多岬」(国立国会図書館デジタルコンテンツ)
- 観光庁佐多岬 灯台守の官舎跡地
- Wikipedia 佐多岬灯台、日本の灯台50選、Category:江戸条約の灯台
- 外務省外交史料館 特別展示 日英交流事始―幕末から明治へ―(PDF)
- 国立公文書館 各所灯台設置箇所絵図 3.各所灯台設置箇所絵図
明治4年(1871)12月時点での、日本における灯台設置状況を示した図です。完成(completed)、建設中(in progress)、計画中(proposed)の3段階に区分されています。
灯台ができる前
銚子海上保安部「灯台の歴史」 より
400年ほど前の江戸時代になると、日本式の灯台が建てられるようになりました。その頃の灯台は「かがり屋」とか「灯明台」と呼ばれており、石積みの台の上に小屋を建て、その中で木を燃やすしくみのものでした。
慶長13年(1608年)に能登国福浦の日野吉三郎という人が、福浦港に建てた灯明台は、石造りの小さなもので、油紙をはった障子の中で油を燃やして火をともすものでした。この「灯明台」が、日本で初めて油を使った灯台といわれています。
明治のはじめまでに、殿様や港の商人たちが建てた灯明台は100以上になっていました。
この他、海岸近くの神社の境内にある常夜灯で灯台の役目をしていたものがあり、今でもその言い伝えのある石灯ろうが所々に残っています。
洋式灯台のたんじょう
日本が今のような灯台を建てるようになったのは、今から約140年前に、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4カ国と結んだ江戸条約で、灯台などを建てる約束をしたことが始まりです。
もちろん、日本人の誰もが西洋式の灯台を見たことがありませんので、フランスとイギリスに、灯台のレンズや機械の買い入れと指導を頼んでいました。
そうして、明治2年1月1日に神奈川県三浦半島の観音埼に、日本ではじめて西洋式の灯台が誕生しました。作ったのは、F・L・ヴェルニーというフランス人です。彼は東京湾の周りに、合計4ヶ所の灯台を建設し帰国しました。
その後を受ける形で灯台建設を請け負ったのがイギリスです。スコットランド出身のリチャード・ヘンリー・ブラントンを長とする3人の技師が明治元年から9年間滞在し、26ヶ所の灯台と、2隻の灯船(灯台の役目をする船)を建設しました。
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