国道339号線沿いにある龍飛岬観光案内所「龍飛館」は、かつて「奥谷旅館」として棟方志功や太宰治等が宿泊しており、現在はゆかりの品々や、龍飛岬についての記録や絵画などを展示している観光案内所です。
龍飛館より375m帯島方面へ移動すると、珍しい階段国道339号線(下側)に出会えます。
きれいで気さくな受付のお姉さんがにこやかに「どうぞ」と迎えてくれました。元旅館なので、靴を脱いで上がります。
ぶら下がっている剽軽なクラフトは「きんぎょねぶた」です。
ディスプレイのケースがレトロでいい雰囲気です。
2階には上がれません。
当時は龍飛地区の入口にかけられていたそうですが、一時行方不明になり、後年返却されたものとのこと。
高橋竹山は青森県東津軽郡生まれで、津軽三味線を広く世に知らしめた津軽三味線の名人。
日本海側でよくとれる海藻で、寒天などの原料です。青森の所々で乾燥させている姿を見かけました。青森の郷土料理に「エゴ天」というものがありますが、エゴノリの天ぷらではなく寒天のほうです。乾燥したものをお土産に買って家でエゴ天にして使いましたが、味を付けなかったので薄く切ってサラダの具にしたりしました。
棟方志功は24歳の時と49歳の時の2回奥谷旅館に宿泊したそうです。
奥谷旅館は明治35年(1902)創業の老舗旅館で平成11年(1999)まで旅館業を営んでいたそうです。
小説「津軽」で外ヶ浜町を案内した、太宰治の中学時代の親友N君と太宰治の部屋。
「しかし、君も、」と私は、深い溜息をついて、「相変らず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。」 僕に酒を教へたのは、実に、このN君なのである。それは、たしかに、さうなのである。
太宰治「津軽」より
「うむ。」とN君は盃を手にしたままで、真面目に首肯き、「僕だつて、ずいぶんその事に就いては考へてゐるんだぜ。君が酒で何か失敗みたいな事をやらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかつたよ。でもね、このごろは、かう考へ直さうと努めてゐるんだ。あいつは、僕が教へなくたつて、ひとりで、酒飲みになつた奴に違ひない。僕の知つた事ではないと。」
このお婆さんは、このごろお酒が貴重品になつてゐるといふ事実を、知らないのではなからうかとさへ疑はれた。
太宰治「津軽」より
「けふ配給がありましてな、近所に、飲まないところもかなりありますから、そんなのを集めて、」と言つて、集めるやうな手つきをして、それから一升瓶をたくさんかかへるやうに腕をひろげて、「さつき内の者が、こんなに一ぱい持つてまゐりました。」
「それくらゐあれば、たくさんだ。」と私は、やつと安心して、「この鉄瓶でお燗をしますから、お銚子にお酒をいれて、四、五本、いや、めんだうくさい、六本、すぐに持つて来て下さい。」お婆さんの気の変らぬうちに、たくさん取寄せて置いたはうがいいと思つた。「お膳は、あとでもいいから。」
お婆さんは、言はれたとほりに、お盆へ、お銚子を六本載せて持つて来た。一、二本、飲んでゐるうちにお膳も出た。
「どうぞ、まあ、ごゆつくり。」
落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになつて互ひに庇護し合つて立つてゐるのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。
太宰治「津軽」より
かつてこの地域には道らしき道もなく、崖を登ったり通行に危険が伴っていましたが、大正末期「文化はまず道路から」の旗印の元、牧野逸蔵氏は立ち上がったのでした。詳しくは、龍飛岬観光案内所・龍飛館のブログ「「十三の洞門」物語」をご覧ください。
道の駅などでもたまに学校新聞を見かけますが、子供たちが地元の事をよく調べて書いているので、とても面白く参考になります。
龍飛館は昭和35年に改修が行われたそうですから、築61年になる建物のようです。
当時の龍飛の様子が分かる映画です。
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