【鹿児島】佐多岬③

佐多岬灯台(Cape Sata Lighthouse)
佐多岬灯台(Cape Sata Lighthouse)
佐多岬灯台守の官舎跡地(GoogleMaps)
佐多岬灯台守の官舎跡地(GoogleMaps

佐多岬③は佐多岬灯台守の官舎跡地のご紹介です。

佐多岬灯台のある大輪島
佐多岬灯台のある大輪島

徳川幕府は慶応2年(1866年)江戸条約で8つの灯台を建てる事を英・仏・米・蘭の4か国と約束しました。佐多岬灯台はその一つです。

佐多岬灯台
佐多岬灯台

昭和20年に空襲で破壊され、現在の灯台は昭和25年に再建されたものです。現在は無人で運用されています。

佐多岬公園展望台から佐多岬灯台守の官舎跡地へ向かいます
佐多岬公園展望台から佐多岬灯台守の官舎跡地へ向かいます
ジャングル感ある
ジャングル感ある
道は整備されており歩きやすい
道は整備されており歩きやすい

鳥の声や風の音が聞こえます

右へ
右へ
燈台局所轄地
燈台局所轄地
見えてきました
見えてきました

佐多岬灯台には船で行くのですが、昭和38年までは灯台守が常駐しており、ここには灯台守の家族が住んでいたそうです。

外側にも柵の名残があります
外側にも柵の名残があります

ここから隣の集落まで歩いて40分かかったとのことです。

現在は官舎の外壁が残されています
現在は官舎の外壁が残されています
手前の部屋を見てみましょう
手前の部屋を見てみましょう
ここは何だったのかな
ここは何だったのかな

雨水でも貯めて使っていたのかな。

ドアの残骸と階段
ドアの残骸と階段
パイプと窓
パイプと窓

当時を偲べそうなものはこの部屋位で、後は草木に覆われ、石の壁がうっすら見える程度でした。

先ほどの部屋の裏手
先ほどの部屋の裏手
何かの跡
何かの跡
官舎はおよそ70㎡の広さ
官舎はおよそ70㎡の広さ
あちこちから緑が
あちこちから緑が
窓枠跡
窓枠跡
官舎の上の方にソテツ
官舎の上の方にソテツ
奥の壁が見えます
奥の壁が見えます
雨どい用の金具でしょうか
雨どい用の金具でしょうか
かろうじて残っている窓枠
かろうじて残っている窓枠
塀の跡奥に階段も見えます
塀の跡奥に階段も見えます
広場へ抜けました
広場へ抜けました
全体の雰囲気
全体の雰囲気
良い感じのベンチもあります
良い感じのベンチもあります
ここの風は展望台よりは穏やかでした
ここの風は展望台よりは穏やかでした
佐多岬灯台守の官舎跡地案内板
佐多岬灯台守の官舎跡地案内板
初代佐多岬灯台守の官舎
初代佐多岬灯台守の官舎
日本初の機械動力による貨物索道
日本初の機械動力による貨物索道

佐多岬灯台建設用の貨物索道。日本最初の機械を動力としたロープウェイと言われています。島と島をつなぎ資材を運搬しました。

明治時代の佐多岬灯台
明治時代の佐多岬灯台
島と島を繋ぐ索道
島と島を繋ぐ索道
佐多岬園地案内図
佐多岬園地案内図
コース案内
コース案内
灯台守広場
灯台守広場
広場から見た官舎
広場から見た官舎

ここからは佐多岬で見た昆虫や植物の写真になります。

YouTubeショート動画
さっと横切った蝶に、もしやツマベニチョウ?!と思いとっさに撮影
さっと横切った蝶に、もしやツマベニチョウ?!と思いとっさに撮影

アサギマダラっぽいです。

オオイタビ(大崖石榴)クワ科イチジク属
オオイタビ(大崖石榴)クワ科イチジク属
アシズリノジギクに見えるけどよくわからない
アシズリノジギクに見えるけどよくわからない
ソテツ
ソテツ

鹿児島県肝属郡南大隅町は国指定特別天然記念物のソテツ自生地とされています。(鹿児島県教育委員会「鹿児島県のソテツ自生地」)

大蛇のようで少々怖い
大蛇のようで少々怖い
帰り道
帰り道
ムラサキツバメ
ムラサキツバメ
クワズイモ
クワズイモ
アカホシカメムシの幼虫
アカホシカメムシの幼虫

どことなく赤べこっぽい

ビロウ(枇榔)
ビロウ(枇榔)

枇榔の足元にはソテツ

この後、佐多岬公園駐車場に着いたらパラパラと雨が降り出したのです。「せめて岬を見ている間は雨を降らさないで~」と祈願して始めた散策でした。御崎神社は霊験あらたかです。空模様に不安がある時は是非お参りを。

↓の動画は海上保安庁のYouTubeチャンネルのものです。佐多岬灯台の空撮です。

海上保安庁の佐多岬灯台の空撮もご覧ください。

参考:

灯台ができる前
 400年ほど前の江戸時代になると、日本式の灯台が建てられるようになりました。その頃の灯台は「かがり屋」とか「灯明台」と呼ばれており、石積みの台の上に小屋を建て、その中で木を燃やすしくみのものでした。
慶長13年(1608年)に能登国福浦の日野吉三郎という人が、福浦港に建てた灯明台は、石造りの小さなもので、油紙をはった障子の中で油を燃やして火をともすものでした。この「灯明台」が、日本で初めて油を使った灯台といわれています。
明治のはじめまでに、殿様や港の商人たちが建てた灯明台は100以上になっていました。
この他、海岸近くの神社の境内にある常夜灯で灯台の役目をしていたものがあり、今でもその言い伝えのある石灯ろうが所々に残っています。
洋式灯台のたんじょう
 日本が今のような灯台を建てるようになったのは、今から約140年前に、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4カ国と結んだ江戸条約で、灯台などを建てる約束をしたことが始まりです。
もちろん、日本人の誰もが西洋式の灯台を見たことがありませんので、フランスとイギリスに、灯台のレンズや機械の買い入れと指導を頼んでいました。
そうして、明治2年1月1日に神奈川県三浦半島の観音埼に、日本ではじめて西洋式の灯台が誕生しました。作ったのは、F・L・ヴェルニーというフランス人です。彼は東京湾の周りに、合計4ヶ所の灯台を建設し帰国しました。
その後を受ける形で灯台建設を請け負ったのがイギリスです。スコットランド出身のリチャード・ヘンリー・ブラントンを長とする3人の技師が明治元年から9年間滞在し、26ヶ所の灯台と、2隻の灯船(灯台の役目をする船)を建設しました。

銚子海上保安部「灯台の歴史」 より

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