【福岡】志賀島(しかのしま)

志賀島
志賀島
志賀島
志賀島(GoogleMaps

海の中道(福岡県道59号)を通って志賀島へ移動します。※志賀島1周動画は出来次第ページの末尾に表示します。

志賀島は福岡県東区にある、砂州で繋がった陸繋島(りくけいとう)です。潮が満ちた時、陸と切り離されていたそうですが※1、昭和5年(1930年)に、海の中道の西戸崎との志賀島橋が開通したことにより、砂が溜まり、完全に繋がるようになったそうです。

※1 最初真逆の案内を書いておりました。申し訳ありません。

志賀島橋
志賀島橋
漢委奴国王印(福岡フィギュアみやげ)
漢委奴国王印(福岡フィギュアみやげ

教科書でおなじみの「金印(漢委奴国王印)」は、江戸時代の志賀島で、農作業中だった甚兵衛さんが偶然見つけたそうです。その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されたそうです。(参考:福岡市博物館

漢委奴国王印文(福岡フィギュアみやげ)
漢委奴国王印文(福岡フィギュアみやげ

中国の「後漢書」によると、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれてあり、それを元に、福岡市東区の歴史は西暦57年から始まっているのが興味深いところです。印文の解釈は定まっておらず”あくまでも『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」「倭國」「光武賜以印綬」の記述にある印綬であると認識することが文化財としての価値を決定しているものである。(Wikipedia より)”

金印公園
金印公園

西暦57年というと、1万年以上平和に続いた縄文時代も終わりをつげ、弥生時代になっており、日本各地でさまざまな国が勢力を拡大しようと競っていました。福岡平野一帯は奴国(なこく)とよばれ、大陸との交流が活発に行われていたようです。

駐車場の前は海です
駐車場の前は海です

道路わきの駐車場に車を停め、金印公園の階段をのぼります。この場所で金印が見つかったということです。

ところどころ工事中
ところどころ工事中
金印公園案内図
金印公園案内図
楊尚昆の詩碑
楊尚昆の詩碑
福岡市は1979年5月2日に中国広東省広州市と友好都市になったそうです
福岡市は1979年5月2日に中国広東省広州市と友好都市になったそうです
郭沫若の詩碑
郭沫若の詩碑

戦後頻傳友誼歌 北京聲浪倒銀河
海山雲霧崇朝集 市井霓虹入夜多
懐舊幸堅交似石 逢人但見咲生窩
此来收穫將何似 永不重操室内戈
一九五五年冬訪問日本歸途在福岡作轉瞬已十八年矣
一九七四年冬 郭沫若   (参考:国立情報研究所 「日本における郭沫若の遺跡の一考察(PDF)」 より)

陽がだいぶ傾いてきたころ
陽がだいぶ傾いてきたころ
眼下には海があり船が行き来しています
眼下には海があり船が行き来しています
そして空には旅客機
そして空には旅客機
金印などの観光案内板
金印などの観光案内板
部分的に拡大
部分的に拡大
お、あそこにあるのは!
お、あそこにあるのは!
金印レプリカ
金印レプリカ

思いのほか小さいです。埋まっていた時の状況が、大人二人で抱えなければならない石の下に、更に石で囲われていて、その中に金印があったそうなので、そこまで大仰になっていなかったら、そのまま鍬入れて耕され、今では藪の中に埋まっていたか、道路の下かもしれませんね。

拡大された印文
拡大された印文
金印の説明
金印の説明
公園から下を見ると駐車場が見えます
公園から下を見ると駐車場が見えます
違うルートで下りて…いけない感じです
違うルートで下りて…いけない感じです
また飛行機が飛んでいきました
また飛行機が飛んでいきました

金印公園から北西に少し行ったところに「蒙古塚」があります。文章の構成上先に金印公園をご紹介しましたが、実際は志賀島一周がてら蒙古塚→金印公園の順番で観光しました。

蒙古塚
蒙古塚

元寇、または蒙古襲来は鎌倉時代に2回ありました。1回目は文永11年(1274年)で文永の役と呼び、2回目は弘安4年(1281年)で弘安の役と呼んでいます。

カラフルですね
カラフルですね

一説によると、日本に猛然と攻めてきた元寇、夜になっても日本側は夜襲をかけたりしておりました。元寇は一旦退いたものの嵐に見舞われ、船が難破や座礁などしたようです、投降してきた兵(120とも200とも言われます)を生け捕りにして、打ち首処刑した場所に蒙古塚が建てられたようですが、現在の場所は当初の場所から移動しているようです。

バス停「蒙古塚」
バス停「蒙古塚」
平日は10本、土日祝は7本の運行があるようです
平日は10本、土日祝は7本の運行があるようです
蒙古塚は古くは「首切塚」と呼ばれていたそうです
蒙古塚は古くは「首切塚」と呼ばれていたそうです

蒙古軍供養塔は、昭和2年(1927年)5月15日に日蓮宗僧侶高鍋日統により建立されました。

多くの石碑があります
多くの石碑があります
張作霖(ちょうさくりん)による「蒙古軍供養塔賛」
張作霖(ちょうさくりん)による「蒙古軍供養塔賛」

供養塔の完成から1年近く、昭和3年(1928年)3月7日に除幕式が行われることになりました。張作霖は蒙古塚供養塔の賛成人に名を連ねており、除幕式はにぎにぎしく行われる予定で、内モンゴルの王族カラチン王も招いていたそうですが、カラチン王は体調がすぐれず来日はならなかったそうです。張作霖も来ていません。この除幕式から約3カ月後の6月4日に張作霖は関東軍によって爆殺されたのでした。

本文(上段)
大日本志賀島蒙古塚供養塔讃
卓哉大慈氏法身遍塵界普瞩四天天下作一家族視 親
大日本志賀島蒙古軍供養塔讃
卓哉大慈氏法身遍塵界普矚四天下作一家族視
寃親奚足論平等無差別何意忽必烈渡海興雄師
被馘諸健兒荒原血長碧博多大海灣往往髑髏哭
迄今六百戴遺塚多湮滅大徳高鍋師至仁被幽顯
改建此浮圖冥魂獲依託並藉信仰誠廣造和平福
俾亜細亞州蒸為太和宇我知大師意請為宣其蘊
欲謀大和平首除人我相衆生執我有究意我安在
如彼虚空雲斯湏就澌滅四大本皆空何論一枯骴
枯骴亦虚空敵我何畦畛以此大智慧宏拯諸鬼趣
無我無敵人一切皆度脱推此悲愍心普及於東亞
為謀和平故開顯無上法煌煌法華文塔畔森布列
宏闡日蓮宗天人盡歓喜此塔不可毀此願無終訖
我今作此讃雨涙霑胸臆願以此因縁消滅脩羅刧
中日同種族文教通沆瀣庶體釋尊慈左右長提絜
順逆證一如回向於佛道前路共蕃榮寶祚永無替
中華民国東三省保安總司令張作霖書  (戦前期日本における元冠遺跡の政治利用について より)

どれが何かは分からねど、異国情緒のある石碑たち
どれが何かは分からねど、異国情緒のある石碑たち

その10年後、昭和13年(1938年)11月に、徳王デムチュクドンロブ(蒙古連合自治政府主席)の参詣を得たのでした。

小腹が減ったので、帰りは志賀島橋を渡ってすぐの場所にあるやすらぎ丸の「金印ドッグ」を食べることにしました。

やすらぎ丸
やすらぎ丸
セコムはいってる
セコムはいってる
おお、船のようだ
おお、船のようだ
暗くて美味しそうに見えませんね!美味しかったですよ。
暗くて美味しそうに見えませんね!美味しかったですよ。

若い男性2人でホットドッグを作っていましたが、積み上げられたパンの様子から、大繁盛しているのだなと推察しました。個人的にはバーガードッグが好きですが、tanuはステーキドッグが良いと言っていました。

志賀島1周するドラレコ動画です。

参考:戦前期日本における元冠遺跡の政治利用について(PDF)/蒙古軍供養塔除幕式問題の再検討(PDF)/市史資料室所蔵資料目録(PDF)/大谷栄一著『近代仏教という視座-戦争・アジア・社会主義』(PDF

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