今から向かう目的地は民家が多く道路も狭く有料駐車場も見つけられなかったので、神岡公民館に車を停めて、歩いて観光することにしました。西里橋を渡り、船津座方面へ。
さすが神岡鉱山の町、鉱石標本付きの道しるべがあちこちにあります。
飛騨市神岡は、かつての鉱山跡を利用した宇宙研究施設が多数存在します。ニュートリノ研究のスーパーカミオカンデ、重力波望遠鏡KAGRA等です。
飛騨ならではの伝統技術を集結した地域交流センターの船津座があります。
船津を歩いていると、あちこちから水が流れる音が聞こえてきます。それは、近くの大洞山からの湧水を引いていて、各家庭や共同水屋でこんこんと湧き出る水を利用しているためです。
観光地だからでしょうか、室外機やプロパンガスのボンベなどを、それとなく上手に隠しており、何か地域で決めた基準があるのかなという印象を持ちました。
柳川水屋の周辺が旧花街界隈になっています。
神岡祭は「行列祭」と呼ばれ、大津神社の行列祭は飛騨三大祭の一つ。
山田川の上流には旧飛騨神岡駅があり、その周辺には幸土泉水と上今水屋があります。
柄杓があるところが飲用、その左の水槽がスイカやビールを冷やしたり菜洗いしたり、さらに左が足などを洗う場所になっているようです。
「牛ヶ口」水屋の由来
現在の相生街の此の地域は、昭和初期ごろまでは「牛ヶ口」と呼ばれていました。
今から三百年ほど前(元禄七年)当時の幕府が田畑から厳重な年貢を徴収するための基本台帳ともいえる「元禄検水地帳」に、この地が「船津町村字牛ヶ口」と記載されています。今の富士ケ丘辺りの川渕に、牛の背に良く似た黒い大岩があったので「牛ヶ淵」が「牛ヶ口」になったという説や、又富山から越中東街道を通って塩屋魚など多くの物資を運んだ牛方衆が、この町口にあった相生町を「牛ヶ口」と呼んだのが地名となり、「元禄検水地帳」に記載されたという説もあります。
この水屋の水源は朝浦平の西小学校付近一帯の地下に劣岩帯が走っており、四十米の隧道を横に掘り進んで土壌から劣岩を伝って落ちる水滴を集めて、現在の水槽まで誘導し水源としています。
水量は農業の減反政策や水田から畑地への移換などで著しく減少しましたが、三百年間一度も断水することなく年間14℃の平均水温を保って流れ出て現在に至っています。
今後も「牛ヶ口」水屋として、末永く親しんでいただけることを願っております。由来表記板より
飛騨市公式観光サイト飛騨の旅 「ひだのんびり街歩き」パンフレットの神岡町市街地(PDF)は4ページ目
船津大洞湧水群の動画も作りましたので、良ければご覧ください。
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